炭鉱の抜け穴

不可解なことの覚書 チラシの裏

バルサミックムーン トゲトゲ ささくれ 35

うまくかけるかなと思っている事について。

 

クリエイティブライセンスについて。あの世のルール、この世のルール。

 

 そういうわけで、私はとてもじゃないけれと思春期の頃は恋愛適齢期ではなかったけれど。高校生の頃、詩を読ませてもらって、そのなかの一つを読んだとき、男子でも年の離れた異性に対する、性的なことがらにたいして、潔癖なところや、嫌悪感みたいたものが強いんだと思ったこと。そんなことをおばちゃん達は高校生男子にたいして思うんかなという感想を持ったけれど、感覚が鋭敏な年頃だから変な波長をキッャチしやすかったのかもしれないし、チカンというか、その詩を書いた人ではないけど、突然知らない人から手を握ってこられたような話とか聞いたから、ないこともないのだろうけど。

それで女子だったらなおさら嫌ではないのかな。

 

まだ、二十歳前後の頃のミュージカルのチラシで今でも持っているのがあり、観にはいかなかったけれど、なんとなく取っていました。『泣かないで』という 遠藤周作 著 『わたしが・棄てた・女』からの作品です。

子供頃、定期的にある子供劇場という演劇の公演を観に行っていて、芝居を見るのは好きだったのだけど、今はみにいったりしていないのでその頃の方が文化的だったかもしれないけれど、そのなかに、子供向けの演劇にしては、単純な悪者をやっつけて終わりというのではなく、登場人物がぎりぎりのところにたって逃げるか、裏切ることになるのか、信念を貫くことができない迷いや葛藤の場面が出てきて、意外に思ったのか今でも覚えているのですが、私は子供ながら表現ということに関心があったのか、なんでも真剣に見ていたとは思うのですが。それは遠藤周作島原の乱か何かをテーマにした作品だったのではないかと思います。

 

私にとっては、自分とはまるで関わりのない世界の、優れた作家であると知識として知っている、とても年齢の離れた(ネバーエンディングストーリ―に出てくる亀ぐらい)、作者を人格化して意識したりすることもない、はるかな存在でした。

 

クリエイティブライセンスというものがあるとして、そのレベルというものがあれば、高度になればなるほど、自由になるけれど、自分に対する規範や規律のようなものも厳しくなるとしたら。

 

私が遠藤周作について書いたところでその価値や評価は変わらず、影響も受けないことだと思うし、もしかしたら、作品を読んだことでなにかを喚起できたなら作家冥利に尽きることで、たとえどんなことであっても、あなたが好きなように自由に考えたりおもったりしていいことですよと言われるのではないかと思う。