炭鉱の抜け穴

不可解なことの覚書 チラシの裏

春愁

 ほかの人の被害のブログも読ませてもらって、苦痛の中、理性をもって被害を訴えている方を、相手は私に対して非友好的かもしれないが、それでもその被害に対しては嘘じゃない、本当にあって大変なことはわかるということは伝えられたらと思ってボタンを押すことがあります。その中のブログの記事で、しばらく前にあるミュージシャンの動画がアップされていて、私はその時は押せませんでした。

 私の存在がそれらの人に認知されることはないだろうけれど無関係というわけではなさそうで、いい人だろうし、たくさんの人に勇気や感動を与えてきたのだろうし、関係のない他人にとても心を砕いたのでしょう。それでもどうしてかな。押せなかった。私が自分の被害に気が付いたとき、(2001年ぐらい)そのことを知るきっかけになってくれた人でもあるけれど、私はそのためにとても怖い思いをしたからだ。素晴らしい新曲が出るたびに、くらい相手の顔がはっきりと見えないような道で、自分が正しいと微塵も疑っていない高校生男児に悪態をつかれて、そんなのしょっちゅうで、知らない人にとげとげしい悪意を向けられるのも当たり前で、でも相手の存在が大きくて人気があっていい人だから、一方的に悪者にされても抵抗手段もないし、助けてもくれるわけでなし、自分が悪者になってかばってくれるわけでもなし。私、我慢してたけど、本当に怖かったんだな。掛け違えたボタンは早くかけ直してあげられるほど相手にとってはいいことなんだとおもう。前にチャングムのドラマを見ていた時に、大妃様が、優れていても誠意がなければ奸計を働けは良い結果にはならない、また誠意があり良い人間であっても、思慮が浅ければそれは先に述べた人のすることとなんら変わらないを言うようなことを上手に表現していたけれど、そういうことを思い出す。それだけの影響を与える存在になって、いろいろ保護された立場にあって、そこから生まれる有形無形の禍のはけ口になって、そのことに気づいてもらえなかったという思いがあるからかな。今はあれから、ずいぶん時間もたち、そういう被害はあまりなくなったけれど。たぶん基本善人だと思っていて、言いやすい(書きやすい)というのもあるのだろうけれど。有形無形の無形というのは、たとえば、あるミュージシャンの曲は私にとって祓いになってくれるけれど、この場合は、関係によって生まれる現象があるとしたら、たとえて言うならば『うる星やつら』の諸星あたるにくっついていたなんかが、全部さくら先生に移っていって大変になってしまったように、向こうはなんかいろいろ悪いものが取れて楽になっていいなと思うのかもしれないけれど、私の方はゴミ箱にされるばっかりで大変になる相性ではないかと感じたわけです。

    

 (『うる星やつら』についてあとからか確認したら、物の怪がくっついたときの状況は逆のようでした。私にとっては逆の状況で似たような感じではなかったかと思います。)