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ドキドキ

ラザリス

『「夢追い人」は「革新の天才」へと成長します。

 

だれでも自分の夢を実現しますが、空想は実現できるとは限りません。夢とは、望みと想像と期待の完全な統合です。その三つの要素を一つに統合すると、出来上がったものは、単なる三つの合計以上のびっくりするほど素晴らしいものになります。一つの大きな夢が生まれるのです。あなた自身を最大限に生かし、あなたをあなたより以上のものにするための方法である本当の夢が生まれるのです。

 それに対して空想は、本気で望んでもいなければ、しっかりした意志も期待もない想像の中の子供っぽい冒険にすぎません。言葉だけはドラマティックで、虚勢をはっているかもしれませんが「中身」が欠けています。実際、空想の特質は、それが実現しそうになると喜んだり祝ったりするよりはむしろ怖くなり、怖れの原因になったりします。

 「夢追い人」とは、子供っぽい空想に逃避していて、その空想が実現化することを本当は望んでいない人か、まだ他の誰にも理解していない夢を持っている人のどちらかです。

 例えば、アルバート・アインシュタインはみんなから「夢追い人」だと思われていました。実際、彼はある晩、夢を見ました。光線に乗ったらどんなだろうという夢を見たのです。この夢にすっかり心を奪われた彼は、この夢を忘れることができませんでした。彼はだれも理解しようとすることすらできない夢に見せられたのです。彼の夢が展開していって、相対性理論となって花開くまで、彼はずっと「夢追い人」でした。』

 

  昨日、「のだめカンタービレ」のバイリンガル版を買ってきて読み返していたら「すご… 昔 ヴィエラ先生が言ってた  身震いするほど感動する演奏ができることなんて本当にまれだって オレはそんな瞬間を夢見ながら 昨日まではあきらめてた」 それで、思い出したんだけれど、音楽を演奏しているとき、音楽家は恋人のために、愛のためにと歌っていても、言ってても演奏するときにはそんなことは頭になくて、きっとその瞬間を目指しているのだ。それが悪いとかその姿勢を責めて(?)いるのではなくて、その理想に音楽の女神との契約を果たすために、自然にそうなるのだろう。ずっと前にテレビでマイケル・ジャクソンの番組をみていて、どうやって音楽を作るのですか?と聞かれて、「空から落ちて(降りて?)くるんだよ。」とこたえていたように。天の高いところと自然に波長が合うようなのは、本当にすごいことだと思うけれど。

 

 テレビに現実性を感じるか。私はやはりテレビはテレビだと思う。どんなに素敵で、見えていて聞こえていても、ショーウインドーの向こう側の手の届かない商品のように、自分にとっての現実とはやはり違う。それは仏教でいうところの六根の目・耳・鼻・舌・身・意の六つの器官のうちの主に目と耳の二つの機関が使われていて、現実では六つともを主体的に使っているのではないかと思う。それとも、ハイテク被害によってマズローの要求五段階説(生理的欲求,安全欲求,社会的欲求,尊厳欲求,自己実現欲求)でいうところの、生理的要求の部分さえ危うくされて、そのようなゆとりがなかったからか。サルの実験で、食べ物を食べてる様子を見て実際に自分も食べた気にるというようなことが紹介されているのを聞いたことがある。でも、それがそのまま人間に適用できるのだろうか。フィギアスケートを昔見るのが好きで、成りきって夢中で見ていたことが子供のころはあったけれど、いつの間にかそういうこともなくなっていた。自己の限界を悟ったからか、精神的にゆとりがなくなったからか。子供時代のごっこ遊びの延長の感覚だったのか。

  そんなわけで、私はテレビを見て、その向こう側の人と目が合ってドキドキとかいうことはないのだけれど、応援していたスポーツの試合とかではあるけれど、でも一度だけドキドキしたことがあった。PCが、個人でも手軽に速く使えるようになって、昔の映像なども視聴できるようになった。それはマライア・キャリーのずいぶん昔のビデオ・クリップでした。以前、占いの本のどこかに、恋愛に落ちるのは目から血液が相手に送られて…というような昔の哲学か何かが紹介されていたのを読んだような気がしたのですが、よく思い出せません。もちろん過去の映像で現在とは違い、私にドキドキされても向こうには関係のないことで、わかったところで困るだろうけれど…。すごくキラキラして高いところとつながっていてそのエネルギーがながれてきたのでしょうか。