炭鉱の抜け穴

不可解なことの覚書 チラシの裏

バルサミックムーン トゲトゲ ささくれ 36

2015/08/03 (月)

それで、例えば何かの技術なら仕事というのには資格を取ったらいいというだけではなくて、誓いのようなものがあるとして。

そのような具体的な技術とかではなくても、出家するときに得度するように、作家や芸術家の人もそういう誓いや宣言を明確な言葉にしていなくてもどこかで自分にたいしてするときがあるんじゃないかと思う。

そしてその本人が年を経ててその頃のことは忘れてしまったように思ったとしても、やっぱりそれはずっとつづくのではないかと思う。

  

クリエイティブライセンスについて傾向や種類がもしあるとしたら、同じ色が好きというような基準で考えたとき、同じ目線でみられなくても、同じようなところに属しているとかもしれないとして。

 

 

2015/08/04 (火)

 

神様気取りの覗きマンいんちきずるおをやめて、ふりだしにもどって誠意のあるひとになれたらいいね。ずるのまんまで要領よくじゃきっといつまでたっても神様からOK貰えないね。

おたふく風邪水疱瘡のように子供のうちに済ませてしまえば軽いのかもしれないけれど、きっと今も昔もバンジージャンプを飛ぶようなことは女の子じゃなくって男の子の通過儀礼なんじゃないかと思う。まあ、私にたいしてで他の事については違うのでしょうけれど。

 

アホロートルのまんまでもなにかよいことを成し遂げることはできるかもしれない。でも今生、男性として生まれてきてなにか男性性のよい面、高貴な性質を学ぼうとして生まれてきたのなら、その課題を忘れたままになってしまうのではないでしょうか。来世でやり直す?

 

 

2015/08/06 (木)

しばらく前から浮かぶイメージは、歯車が2つ浮かんでいて、別々にあること。それは特定個人ではなくて、何かの思惑で利用されようとした噛み合わない歯車を一緒にしても動かないそういうイメージ。もしサイズがあっても何かがないと、魔法なんて起きないのだろうという。

なにかっていうのは、なにかだけど。しばらくまえに書いてある占星術の本に出ていた話で、平安時代はまだ人間の姿が定まってなくていろんな形になれたと書いてあった。本当かな?もしそうなら、吉備津神社にしばらくまえにいって、まだ大和朝廷ができる前、桃太郎の話を読み、うら()が逃げるときどちらも鳥や魚や姿を変えていったのは、物語ではなくて、本当なのだろうか。 現代でも幽体離脱をする人の話もあるから、そういうようなことなのだろうか。平安時代に歌を送りあうのは気持ちを通わすためで、そういうのはとても大事なことだとわかっていたからだろうか。何かが生まれるために。でもそれは、絆のある人との虫の知らせや、恋人同士や親しい間柄のあたたかい心の通いあう状態のその状態とどう違うんだろう。純度なのだろうか。