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炭鉱の抜け穴

不可解なことの覚書 チラシの裏

バルサミックムーン トゲトゲ ささくれ 33

 他の事を書こうと思っていたのだけれど、嫌なことは嫌だと言わなくては駄目だよと言われたことが残っていて、書こうとしていたことと無関係ではないけれど、こちらを先に書いてしまおうと思う。

 俳句の雑誌を今年の3月号から読みはじめたのですが、その時に『ぶらんこを降りて憂き世と闘はむ』という俳句が載っていてドキッとしました。それはたぶん私の心の中にそういうブランコをもっていて、それはすてきな安全基地のような心象風景だったから、それを言い当てられたように思ったからだと思う。でも、私にとってのブランコの姿というのは、アニメのナウシカに出てくる、ミサイルか槍のようなものを突きたてられて、空を飛ぶ壺のような乗り物に乗った男達に吊り下げられて、体液を流しながら運ばれていくオームの子供の姿のような側面もあると思う。

 『はじめておつかい』 猿扱い 動物の番組で連想させるようなキーワードと交尾について ニュースで熊が話題に出てきてやたらと悪者にされる 私にとって思いやりのあったよいひとを連想する人の名前が出る 『わらってこらえて』

 人を人扱いせず小馬鹿にして笑いをとって見世物にして面白おかしく生きてきた人たちがいること。私にとってはそうであること。それに協力してきたいい人と信じてきた、アンフェアな、社会的立場のある人もいること。 

 福岡で買った私にとって神託かなと思えた本に、「人って、些細なことでも忘れていない。 表面上は忘れていても、何かのきっかけさえあれば思い出す。傷ついたことは記憶に焼き付いている。傷つけられればどこかで仕返しするチャンスを狙ってる。 そしてこだわっていれば、何十年後でも、そのチャンスが巡ってくる。これが「無意識の原理」だってことなんです。カメラマンの彼との真相は、私より彼の方がずっとこだわっていた。そのこだわりを解消するために、「彼が自分で、自分を罰したかったんだ」と。 だから私は言うんです。「憎いのなら、あきらめないで。その憎しみを忘れないで、持ち続けて。そうすれば必ず、再び会うチャンスが訪れるから」傷つけられた過去を無理に忘れようとしたり、許そうとする必要はない。 腹が立つなら、その怒りを忘れないで。恨んでいるなら、その恨みを忘れないで、受け入れて。そして、そんな恨みや憎しみを晴らすチャンスに希望をつなごう。 そのチャンスを信じられればちょっと強くなれるし、生きる希望も湧いてくるから。ただし、恨みや憎しみを晴らすチャンスが訪れたときは、自分の傷みを癒すためにも、「正面から、正々堂々と、正攻法で、コテンパンに」というのを忘れないでね。」と書かれていました。

 私の暗い情熱の一つはね、もし結婚したとしてもテレビで放送されるような結婚式はしないという事です。何度も繰り返し画策されてきたらしい、過去の知り合いを連想させる同じ名前の人やそっくりな人を準備された、上辺だけ取り繕えばいい、人生は見せ掛けと言っているような悲しい悲しい嫌な嫌な結婚式をやらされるのだけはやめよう。

 そんなことして、何の得があるの、自分が損するだけではないかと思われても、私にとってはそれは、嫌なことを嫌だと、相手に伝えることができるチャンスです。

 俳句の本の5月号に戦後70年という事で、浮浪児についてかかれた句が載っていました。その中で、『浮浪児1945- 戦争が生んだ子供たち』という本が紹介されていました。「浮浪児たちは僅かばかりのいい大人と、そうでない大勢の大人たちに翻弄されながら、とにかく生き残った。生きたというよりは、死ななかったのである。二年も三年も風呂に入ったことなどない虱だらけ垢だらけの身で、どこかで雨露をしのいだ日々を過ごしていたのである。生きる手立てとして、靴磨き、モク拾い、ユスリ、タカリ、新聞売り、物乞い、麻薬、街娼やテキヤの走り使いなどを、こなしてきた。女の子は早晩売春に流れる。刈り込みという一斉収容のたびに大勢の孤児たちは<散りては群るゝ>を繰り返す。時折、彼らを助けてくれたり、やさしくしてくれたのは、彼らと同じくらいにつらい身で生きていた街娼やテキヤであって、彼らをもっとも怖がらせたのは厚生省の役人、孤児院の大人たち、普通の市民だったのだそうだ。」私は、物質としては食べるものに困ったり、住む場所がなかったわけではなかったけれど、特にある時期、精神的には、置かれた状態は、もっとも怖がらせたものは、浮浪児たちと同じでした。

 その人が復讐したかった事は何か知らない。でも、何かあるのだろう。私とその人との関係は、ザ 三次元 という感じで、言葉にして、分かり合う必要があるのだと思う。何かの誰かの台本に沿って、その人だって、もしかしらた望まないことを強制されたのかもしれない。セーフティネットになってくれた人は、外惑星の方からの影響が強いのかもしれない。私は、その人が、オカルトについて話すにしては、思いのほか外惑星と月や太陽とのアスペクトがないことに気が付いたので。それが悪いと言っているのではなくて、UFO研究家と、実際にUFOにのったことのある人との違いぐらいあるから、その辺の理解の齟齬があるのかもしれないとおもったので。月と月というのは身近な日常の生活から、何かぶつかって勉強し直すことがあるのかもしれない。これからいつかエースぐらいの思いが育てられたらいいねという事かもしれない。ある時、射幸心を煽るゲームのようになって、それで、「最終的に愛を勝ち取った人」というようなイメージがもしかしてほしいのなら、それには協力できません。私がとても孤独で、おびえて、助けを必要としたとき、少しでも手を差し伸べてくれた人だったのなら、また状況は違っていたのかもしれない。でも、そうじゃなかった。神様から見て、この二人はまだ結婚してるとは言えないと思われる状態で、そのようにみせかけようとして、何かを、守ろうとしたのかもしれないけれど、それは私の心を殺すようなことでした。

 『UFO宇宙人アセンション 真実への完全ガイド』ペトル・ホボット×浅川嘉富 を読んでいた時に。いろいろ思ったことがあったのだけれど、また後で書きます。