炭鉱の抜け穴

不可解なことの覚書 チラシの裏

お遍路 徳島番外編 神社2 10/26

 翌日は文化の森総合公園に向かいました。バスは時間が合わなかったのでJRで文化の森駅から徒歩です。川沿いの道を歩いて行きました。

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 増水しています。

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 到着です。

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 右手に神社があります。王子神社です。猫神さんとも呼ばれているそうです。猫のことをお願いしようと思っていたので、こちらの神社がふさわしいですよということだったのかもしれません。

『「猫神さん」 俗に伝えられている「阿波の猫騒動」よりきております。
約三百年前、無実の罪で捕えられた庄屋の娘・お松さんが処刑される前に、 愛猫お玉に報復するように言い含めお玉の霊が罪をかぶせた人々に次々と祟ったので、 長谷川奉公家は、この地にお松とお玉の霊を祀りました。
それより誰ということなく「願い事をかなえてくれる猫神さん」となり、 合格祈願・開運・良縁・商売繁盛の神様と知られ、多くの御崇敬を集めております。』

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 階段を登っていくとき猫さんがいました。

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 神社にお参りをします。招き猫が沢山奉納されていました。

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 さざれ石がここにも置かれていました。階段を降りるころは、先ほどの猫さんも警戒心を解いていました。何かわかるのでしょうかね。

 『エナジー2013』の展示を鑑賞して、『特別陳列 みんなの化石コレクション』を見学します。愛好家たちのご自慢の一品などもあり、世の中にはいろんな趣味があるものだと改めて思います。以前の解釈と違う化石ではないかと認識が変わってきたものや、うろ覚えですが時代の呼び方が、聞いたことのある呼び方と変わったのかと思う期間がありました。

 徳島県立近代美術館では、『西洋美術との出会い 徳島の4人』展をしていました。

『■原鵬雲(はら ほううん 1835-79年)は1862(文久2)年の幕府遣欧使節団に随行し、ヨーロッパ各地で西洋美術を目のあたりにしました。帰国後は水墨でヨーロッパの風物を描き、油絵も描いています。
■井上辨次郎(いのうえ べんじろう 1860-77年)は1873(明治6)年イギリスに留学し、ロンドンで本格的な美術教育を受けました。日本で最も早い時期の美術留学生です。
徳島藩の御用絵師だった守住貫魚(もりずみ つらな1809-92年)は、伝統的な大和絵の絵師ですが、印刷物を通じて西洋美術を吸収しようとしています。
■その息子、守住勇魚(もりずみ いさな1854-1927年)は、1876(明治9)年に明治政府が開校した工部美術学校で洋画を学びました。この時代を代表する洋画家の一人です。』
 幕末の武士の家系の若者が青雲の志をもって西洋に留学し真面目に取り組んでいた学習ノートや制作を見せてもらった感じでした。早世してしまった人もおり、でも、なんだか現代の真面目な学生と変わらない感じでした。大名行列の模写をした作品も展示されていたのですが、日本画というよりは現代的なイラストレーションのように思われたので余計にそう思ったのかもしれません。徳島藩の御用絵師の絵画も展示されていたのですが、昔は当たり前だった日本の風景が、反転して、今では珍しいものになってきつつあるように感じたりして、それは時代の流れとしてもこのままでいいのだろうかという気もしました。

 常設展では、現代版画 元永定正の版画と絵本I(9月14日[土]-10月27日[日])の特集がされていました。今回、一番心をとらえた作品はジャン・デュビュッフェの『熱血漢』(1955年)でした。初めに見たとき、目の縁を赤くした鬱積した怒りもつ牡牛に見えて、(後からネットで関連の文章を検索して、帽子をかぶった男の人と気が付いたのですが)たぶん解説の文章を読んで余計に触発されてその頃くすぶっていろいろ思っていたことに共鳴したのか、簡単に言葉にまとまらないことを沢山ずっと考えていました。なので、今では何を考えていたのか全部は思い出せないのですが。アンフォルメルというものが「非定型なるもの」というものらしいので知らずしてそういうものとして受け取ったのはあるがままに受け取ったということなのかもしれませんが。

『デュビュッフェが絵に専念するようになったのは、戦後間もない41歳のころである。最初は、当時の世界をせっけんしていたアンフォルメル(非定形)の画家として注目されたが、やがて独自の画風を打ち立てた。この作品は一見すると子供の落書きのような軽さがある。しかし実はこれが彼の目指したものなのである。彼は文化的、芸術的な伝統が人間を疎外していると考え、フランスの民芸や未開人の芸術、子どもの絵などを積極的に取り入れることで、それらの制約から逃れようとした。そして制作の現場では直感や偶然性、即興性をできるだけ大切にした。この作品をよく見ると、描いては塗りつぶし、夢中で制作している彼の熱中ぶりが伝わってくるかのようである。また、それでいて無駄な表現が全くなく、完成された技法の確かさを示している。ややサイズは小さいが、最も彼らしい作品だといえよう。(江川佳秀「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞1988年06月07日掲載)   』

 ホームページに掲載されていた概要とは違う解説が添えられていたと思うのでもう一度読み返すことができたらとおもいました。サロン文化とその外側というかそういうことが書かれていたと思ったのですが、先ほど探しなおしたところネットで読めたようでした。思っていたのはギャップのようなことです。共通認識や自分とは共有していない時間について、当然わかっているだろうと求められる同意、圧力、繰り返される同じパターンの現象。テレビに出ている人がONの時間の時、取り繕う時、私にとって家でテレビを見る時間はOFFの時間で、人間にはOFFの時間が必要で、それは奪われてはいけなかったこと。ドロシー・ギルマンの『テイル館の謎』に出てくるような影のうすいような人たちが動いているような。そこにいて、その場所から間接的にかかわって関係があるようにみせかけるような。サロン文化。閉じられた世界の暗黙の了解。狭い範囲のなれ合いの評価。文化の成熟、形骸化して新しいものが入らなくなり、うまれなくなったような。一部の繁栄とそのすぐそばにある困難。そこに属さない文化があること。テレパシーの通じ合う人とそうでない人。そうでなくても分かり合える場合とそうでないとき。それから自分の身近なことから過去の事、バブルの頃の事をよく思いだしていました。なぜでしょうね。バブルの頃、私はその時間がずっと続くと思っていたのかな。今から思うとある期間がそうだったようで、私はその頃たぶん中学生くらいで、郊外の田園の拡がる公立の学校に、昔ながらの学生服で斜め掛けにした白い学生かばんで、自転車禁止区域ぎりぎりのあたりに住んで通っていて、読みもしないのに律儀に教科書をもっていくような生活で、バブルと言われても、実際にかかわりがなかったような。(その頃の生活が今の重い荷物を運んで長距離を歩くお遍路をする基礎がつくられたのかもしれません。)最近になって、バブルの頃を謳歌した人たちが、仕事帰り地元にもあったらしいジュリアナのような場所に寄っていた話を聞いて、そうだったのかと思ったことがありました。私にとってはねるとんだとかと一緒で、テレビの向こう側の違う世界の話におもえます。そういえば、さらに数年後のはじけたころには進学の頃で、もともとそう安定もしていない家の中を、弾けたバブルの飛沫のさらにそのしぶきがいともたやすくかき混ぜていったことがあったことを思い出しました。

 歩いて通うのは、大変ではあるけれど別になんとも思っていなかったと思います。なんでもおかしいころだったので、なんでもないことでおかしくてよく笑っていたと思います。でも、それは特別の事ではなくて、福永武彦の本だったと思うのですが、出てくる登場人物が、看護婦さんたちを窓から見ていて「彼女たちはなぜあんなに笑うんでしょうね」というようなことをいい、そばにいた人が「若いからでしょう」と答えていたと思ったのですが、そういうものなのでしょう。俳句のラジオ番組のバックナンバーを聞いていたら、同世代の人がゲストの時に、キン消しという言葉であっという間に小学生時代に戻ってしまい、私は別に集めていたわけではないけれど、そういう時代というか空気というのは知っているのですごくおかしかったです。あのちっさいおもちゃの中に大きな宇宙がひろがっていたのだと思われます。今だと、ポケモンや妖怪ウォッチなのでしょうか。中学の頃は男子はたいていBOØWYのファンで、そのころには今聞いてもいい曲が勢いのあるバンドがたくさんあったので、そんなことはないという人もいるでしょうし、中にはブラームスの写真をブロマイドにしたりクライスラを崇拝していた人もいるかもしれないし、音楽には興味がなくてアインシュタインの下敷きが宝物だった人もいるかもしれないけれど、いわゆる中二病を揶揄されるその頃の男子のハートをつかんでいたのはそういう感覚で私の印象だとそう思います。とにかく何かしらの、ヒーローはいたような。埃っぽいグランドとまぶしい太陽の光、ざわめき。お遍路の本を読んでいたら、虚空蔵菩薩について書かれていました。『虚空蔵さまは「変体の厄を除く」をいわれます。こどもが思春期からおとなへと脱皮するときは、心身ともに変換期です。それが元服(昔の成人式)の年の13歳です。』ちゃんとその頃を守ってくださる仏さまがいるのはすごいことだと思いました。そのころ私がよく聞いていたのはブームでした。トレイントレインとか今聞いても好きな曲なのにどうして手元にないかというと、不安をかき消すようにいつもラジオをつけていた私にとって、当たり前のようにいつでも流れていた曲だからだと思います。その頃、本屋に売られている本がいつまでも置かれていると思っていたのと同じような感覚で、いつか買おうと思っていたのかもしれません。そしてそれは実行できるのですが。