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炭鉱の抜け穴

不可解なことの覚書 チラシの裏

ほのめかし

 ささやきのような、つぶやきのような中傷を受ける事がある。よく拝見しに行くブログを読んでいたら、女性の意識の醜さの露呈が匿名性のあるツイッタ―の中傷によっておこりやすいという記事を読んだ。私にだけに聞こえるくらいの大きさで「いつまでたってもいかん。」「何してもだめなんよ。」「臭い。」ささやかれるそれらはその現象と似ていると思う。

 マンガの『燁姫』のあるシーンを思い出す。(ふだんは地味な女子高生・燁姫は、銀座の画廊のオーナーというもう一つの顔があった。絵画の価値や真贋を見抜く能力に長け、贋作を描かせても超一流の腕を持つ彼女が画廊を経営する目的は、無名の画家だった亡き父が自分を描いた肖像画を探す為だった。その過程で、さまざまな絵画をめぐる愛憎劇を、婚約者の鷹士、アシスタントの蒼らと共に解決していく。ウィキペディア)私の場合は、顔を知らないという場合ばかりでもないので、「…すべて自分たちのためにしか他人を動かすことを考えてない。… 」という一巻目のシーンを、キャラクターについてダブらせたら冷めた感じのフーンていう顔文字のような気分になりますが、それはともかく状況についてつらいねーという部分には共感するのであります。

 宗教の布教活動をしている人はあまりよく言われないけれど、私が社会的に抹殺されたとき、現実でかかわってくれて話をしてくれたとある聖書を勉強をされている方は、読み込んだ聖書をもって学んだ事や聖書について教えてくれた。しん言を書いたプリントをくれた事もあり、その中の一枚に「賢い者たちと共に歩んでいる者はかしこくなり愚鈍な者 道徳感覚の欠けたもの と交渉する者は苦しい目にあう。」(良い交わりは良い感化を与えよい習慣は人に移る。自分の福祉に本当の関心を持ち、向上させてくれる友人を選ぶ。)というものがありました。

 ほのめかしにあうと、その事を思うのです。一般的な社会で常識的ないい人としてニコニコしながら普通に話していて、ふとした時にそのようなことをされるとこの人は自分の福祉に本当に関心を持ち、向上されてくれる人ではなく、あきひのマンガのあのワンシーンのようと。

 よく通る道でよく見かける人に、ある日挨拶をして通ったらそのまま素通りされたことがあって、それはいいのですがしばらく後から来た人が「嫌われてるー。」といって通っていく人がいて、同じようなことが別の場所、別の人でも何度かあった。私としては、山登りですれ違った人にあいさつをするぐらいの感覚で当たり前のことをしただけだったのだけれども。

 宗教について、聖書を学ぶのは悪くないと思う。体質的に仏教になじんでいるのではないかと思うけれど。しばらく前に『ニュー・ムーン農園のエミリー』を読み返して、赤毛のアンの作者モンゴメリの作品だから、聖書の世界が根底に流れていて、基本的に同じ宗派の人が登場人物だけれど、「神についてどう思うか」との質問されたとき、その本が連想されて、エミリーは、おばさんの信じる神様とお父さんの信じている神様は、違う神様のようだと感じていて、そういう状況でも神様についての認識は様々だから、「人間を超える存在に生かされていることに感謝」という、ことはわかるのだけれど。