お遍路 2015/11/7
早朝 5時頃の外の様子です。
前日高知市内で宿泊し、前回歩けなかった場所を歩き、真念庵まで行く予定です。
5時38分発の窪川行のJRに乗るため急ぎます。
車窓からの景色です。時間は早いですが、乗客はポツポツ乗っています。だんだん明るくなってきました。
土佐久礼に到着です。
そえみみず遍路道を歩こうと思っていたのですが、大雨で通行止めになっていると大きな荷物を背負っているのを見かけたためか、道で出会った方に教えていただき、大坂遍路道に変更して進みます。
大坂谷川沿いに進みます。
黒竹の案内がありました。笛に適しているそうです。
休憩していたら、お遍路さんを数名見かけました。夫婦のお遍路さんが前を歩かれていたのですが、道を確認したいようで、声をかけられます。
日本人のお遍路さんと思っていたのですが、英語で聞かれます。うまく答えられません。台湾から来られたそうです。近くに歩きお遍路さんの赤い矢印シールの貼られている電柱を見つけ、身振り手振りであっていると伝えます。
山道の車道を通って行きます。陸橋が見えてきました。
傍まで来ると四国一高い橋ですと書かれていました。
振り返ります。高知自動車道です。
天気は時雨です。
細い道に入っていきます。水がきれいです。
枯葉が積る道です。
七子峠へ向かいます。
地図によると「降雨の際は滝の流水で通行不能の場合がある。」と書かれていました。
この辺りかと思いながら進みます。
実がなっています。マムシ草でしょうか。
蟹が隠れています。
坂道を登って行きます。
七子峠到着です。
霧が出ています。
奥の柵のあたりが山道の入口です。 ここからは再び車道沿いに歩いていきます。それから再び遍路道を進みます。
手書きの案内があります。舟形石です。ここらあたりで般若心経を唱えながら歩きます。何度が覚えようと挑戦したのですが、すぐに抜けてしまいちっとも覚えられなかったのですが、ようやく覚えたようでした。いろいろあって覚えていたいことより忘れたいこと、つらくて壊れないように海馬が自己防衛のために縮こまったのかと思うような過去の事が抜けてしまったような時期もあり、ものすごく記憶力が衰えていたのかもしれないと思うこともありました。この頃少し前に本屋で『マンガと図説 般若心経をよむ』という本を見つけ、その本を読み終わってから覚えられたような気がするので、一応それなりに私なりに効果のあるお経として唱えてもいいですよという許可が出たのかもしれないとも思われました。
それでも繰り返し、読み直さないといけないのでしょう。この案内を読み感動します。
そのような知識があればいいのですが、私にはどれも同じような草に見えます。でも同じようにもったいないことだと思いながら通りました。
「あまんどさま」の案内があります。
遍路道の案内のシールを確認します。
黄葉が見えます。
お雪椿に着きました。今では樹齢400年に近いのでしょうか。
荷物を置いて一休みします。
狛犬と神社の前を進みます。
金明竹自然発生の地とあります。
再び休憩所を見かけます。
道の駅「あぐり窪川」到着です。お店を覗いたり明日の朝食になるようなものを探したりします。今日は岩本寺まで行く予定で時間に余裕があります。しばらくすごし、歩いたあと肌寒くなり、アイス日和ではないのですが、ご当地アイスの搾りたて生乳アイスとあれば食べずに行くことはできせん。お遍路さんにもお会いしました。
再び歩き出します。遍路道から逸れていたようで大回りして岩本寺に向かいます。この日はお祭りのようで縁日の屋台の続く通りを通って行きます。
迷いながらもお寺に到着しました。前回お参りしているのですが、この日もお参りしていきます。
本堂の天井です。
ツワブキが咲いています。
太子堂です。
本堂です。半紙に写経をしたものを納めます。
まだ15:00頃で早い時間だったのですが、旅館に到着です。荷物を降ろします。トイレに行く途中、準備中だったためか、まだ窓や戸を明け放してあり違う部屋を見ることができました。明治や昭和の初めごろのドラマで見るような趣のある和室でふすまなども見学してみたい感じです。お風呂と夕食で温まります。朝、出会った夫婦のお遍路さんと夕食の時にお会いしました。
旅館の入口に林芙美子の額が飾ってあります。少し言葉を交し説明を試みます。うまく説明できなかったのですが、 やさしそうな女性の方でした。
夜になると、宿泊客が多かったのか昼間見かけた部屋からは戻ってきた感じの陽気な声が聞こえてきました。
2016/12/07 (水) 19:34
「本当に嫌なんかもしれん」と笑いながら話ながら通っていった女学生たちがいた。ほのめかしだろうか。
どのように見せかけてきたのだろうか。
私はいま『結界師』という漫画を読んでいて、22巻に脳洗い部屋というのが出ていた。「強制的に記憶や人格を操作し、人間の中身を都合よくかきかえる」「あの娘の処遇は洗脳か、でなきゃ始末の二択なんだ」そういうことが私にもほどこされようとしていたことがある。そてそうなった状態で都合のよいようにできると思っていた存在を感じてこなかったわけでない。いやじゃないわけなどない。
心がねじられて押し潰されて痛め付けられていたとき、私は『西太后の紫禁城』のドラマをみていて随分と救われた。息がつけた。私はこういう番組を作れた国にきっと一生感謝すると思う。
お遍路 2014/7/22
翌日もよい天気です。
五時半です。
出発します。川を渡り歩き遍路の道に進みます。
朝靄の中歩いていきます。
地図を確認します。川と線路沿いの道です。
朝日が見えてきました。
老婆ユリが咲いています。
鬼百合も咲いています。
田園の中の見晴らしのいい道です。
来た道を振り返ると、朝日が山際から出ています。
朝の電車が走ってきました。
カワウソのレリーフの付いた橋を渡ります。日本カワウソは絶滅種指定されていますが昔は沢山この辺りにいたのかもしれないと通ります。
この日は、お昼頃まで歩いて、近くの駅から引き返す予定です。
熊井トンネルが見えてきました。
「明治38年(1905年)12月に工事が完成し、長さ90メートルあり、「トンネルというものは入口は大きいが出口は小さいものぢゃのう」といった人があるという。
レンガは佐賀港から一個一銭の運び賃で小学生などが1~2個ずつ運び、熊井側入口の石張は2人の職人が右と左に分かれ腕前を競ったと言われる。
昭和14年(1939年)までは剣道として利用され、現在はわずか土地の人の通行に利用されているのみである。
近代土木遺産に指定されてます。」
後ろは振り返らずに足早に通ります。
トンネルを抜けます。後ろが明るくて良かったです。
トンネルを出たところです。
線路沿いに進みます。
坂道に昔話の案内がありました。ほら貝と修験者のお話です。
カツオが見えてきました。佐賀町です。
佐賀漁港です。島が見えます。
鹿島が浦です。
この辺りで、何か気になるほのめかしを受けたのですが、なんといっているのかよくわかりませんでした。
鹿島です。特徴のある島です。
これを絵にうつしてみたしかすむ島佐賀山や都めかして八重さくら 安政5年?3月11日 防意軒半開 の句
日が上るにつれきて気温が上がってきます。
佐賀公園です。
展望台があります。
駐車場があります。
海岸沿いです。
景色がおもしろいです。
緑が勢いがあります。
今日は三連休明けの平日だったことを思い出します。
太平洋です。
大き目の石がゴロゴロしています。
波がおもしろいので長々眺めていました。
海沿いに歩いていくと、遠くにビニールハウスがみえてきました。
こんな炎天下で、こんな暑い場所で、いったい何が育つのだろうと思っていました。
近寄って中を覗いてみます。
人もいないし、何もなかったので、今は使ってないのかと思い離れます。
後から、バスの中でもらった『旅たび高知13』のフリーペーパーを読んでいたら、通ってきた場所の紹介が載っていました。
ビニールハウスでは天日塩を作っていたとわかりました。
きゅうりと一緒にいただいた塩もここで作られた塩だったのかもしれないと思いました。
草の丈が随分高いです。
大きな岩です。
海岸沿いに歩いていきます。柵の色が白ではなくこげ茶です。
大昔に流れた溶岩が冷えてそのまま固まったようにみえます。
海を眺めます。
硬そうな海岸です。
暑いです。
先ほどの岩近くまで歩いてきました。
大きな岩の天辺にある標識です。何の印なんでしょうか。
歩いていくと木陰があり一休みしました。
途中で小豆アイスを食べて休憩です。
伊田トンネルです。
蝶が飛んでいて写真を撮ろうとするのですが、木の上の方に飛んで行ってしまいます。
トンネルの中の道に違う種類の蝶がいました。アオスジアゲハです。
トンネルを抜けました。
有井川駅まできて今回はここまでです。
トイレがなかったので、近くの簡易郵便局でお借りしました。ありがとうございます。
カラスの羽が落ちていました。烏の羽は自分にとっての、進路、選択が合っている印と思っています。
海沿いの道で見かけた看板に、不思議な生物に見えるような絵と言葉が書かれていました。
私はそれをてんでんこと読んで、なにか地元の民話にでてくる妖怪の名前かなとおもったので、興味があり伺ってみると、知らないとのことで、それから郵便局の方がひらめいて、てんでいこう、それぞれで行こう、逃げようという津波の時の行動について描かれたものもとわかりました。
海は結構下に見える高い場所にあった看板でした。
駅は空中にある見晴台のようで景色がよく見えます。
時刻表が置いてあり、やなせたかしのイラストのキャラクターが表紙でした。
通ってきた道を眺めながら高知駅まで戻ります。
長い時間かけて歩いて来た道をあっという間に通り過ぎます。
先ほどの島が見えてきました。
土佐くろしお鉄道です。
すれ違う列車です。ジョン万次郎とジンベイザメの里 土佐清水市と書かれています。
海沿いから山沿いの道に進みます。
駅に高知線の歌が書かれていました。4番と五番です。昭和7に作られているようです。
生姜畑があります。
聞き覚えのある名前の駅を通り過ぎます。
次回の進路なども考えつつ過ごします。
蒲がはえています。
通った覚えのある川を渡ります。仁淀川。もうすぐ到着です。14時30過ぎです。時間が早かったので、古本屋さんに行くとほしかった昔の本が何冊かありました。今回はここまでです。
バルサミックムーン トゲトゲ ささくれ 58
2016/05/20 (金) 13:41
世の中には不思議なことかあって、そういうことに出会ったり、巻き込まれたりすることがある。
私のあれはなんだったんだろうということも、占星術をまなんでいくことでいつかは答えの断片ぐらいはわかるかもしれない。
でもそういう出来事に巻き込まれて濁流に飲み込まれて溺れていたり、エネルギーを使って弱って疲れてくたびれ果てていた人間に、そのような余裕のないとき、そういうことから離れた安全な場所でいられて、私よりはるかに豊富な知識や情報を持っていたのなら、もしも親しくなって大袈裟にせずに、話を聞いてもらえたら、それから過去の膨大なオカルトの知識から近いものを類推して何かの助けてもらえたら本当にありがたかったと思う。
それに話を聞けたら第8室海王星 ミステックレクタングル持ちの感覚は、そうでない人はわからないから、もしかしたら貴重な資料がとれたかもしれないのに。
星の配置が揃うとき、よくわかる現代魔法流にいうと異なるいくつものレイヤーか重なって通るときこういう現象か起こるのかとか。
昔のオカルトを極めようとした、今では荒唐無稽な忘れ去られたジャンクの山のような中に答えはあるのかもしれないし、関わりたくないのかもしれないけれど。
この前、『首都消失』の小説を読んで、あとがきから『アメリカの壁』を読んでいて、それには短い短編がいくつも入っていて、でも読み進むのは時間のかかる。
2016/05/23 (月) 13:43
『眠りと旅と夢』の話では、資源開発をしていて古代マヤ文明のミイラを見つけます。そして最後の方に「」という会話のシーンがあり、そういうことかなとも思いました。アメリカの壁では、「」ごくあまり前のことのように出ていて、それは一般には知らされてない本当のことの部分があるんだろうとおもわれました。『首都消失』の本を読んでいたとき、たまたまテレビでダウンタウンの番組で、石破茂地方創生担当大臣との居酒屋での会話で国家の危機に対してどう対応するんですかというような質問がでて、本や映画など参考にしてから考えると答えていたので、この本も読んでいるのだろいうかとおもっていました。
書いたのは106日前ぐらいになっていました。
お遍路 2014/7/21
明かりをつけたまま過ごし、ようやく朝になりました。
大きなサボテンがあったのですが、今は枯れつつあるそうです。
早めに出発します。大善寺です。4時50分ごろです。
私の歩くスピードでは、予定通りにたどりつかないと昨日のうちに悟り、途中の土佐久礼からJRで、次の札所まで行きます。
歩けなかった場所は次の機会に歩くことにしました。
だんだん明るくなってきました。
川を渡ります。
角谷トンネルが見えてきました。
坂を登り、海が見えます。
土佐湾です。
朝日が昇ってきました。
5時37分です。
山道に進みます。
遍路道 焼坂峠へ進みます。
途中で今までで一番大きな蚯蚓を見ました。細い道なので、移動するまで待って、登っていきました。
悪天候が続き道が心配でしたが、歩きやすい道です。
土砂崩れで、道が崩れています。
土砂が道の下まで流れていっています。
この辺りで、低い音が響いてきて、ウシガエルがいるのかとのんきに歩いていました。
しばらくしてまた聞こえてきて、低いうなり声だと気づき、体が固まります。
手負いの野犬だったらどうしよう、餌になりそうなものを取り出すには、どうやってかわそうとあれこれ考えるのですが、血が凍るとはほんとにあるんだと思いました。
そのうち動けるようになり、カバンにぶら下げていた鈴を鳴らしながら歩いていきます。
追いかけてはこなかったようです。
もう一か所土砂崩れの跡がありました。
キノコが生えています。
再び気を取り直して歩いていきます。
大雨の後の水がまだ流れていました。
お遍路さん何人かとすれ違います。野犬について尋ねたところ遭った人はいなかったようでした。
それにしても健脚のお遍路さんが多くて、すぐに姿が見えなくなっていきました。
舗装された道路にでます。
烏の羽です。
ヘンロ小屋があります。
久礼川の側に腰かけたような木がありました。
久礼駅に向かいます。
タクシーの運転手さんに、歩きのお参りですと答え、でも親切に色々教えていただきます。
では、ここから乗り物で進みます。
窪川駅に到着です。ここからはすぐに37番 岩本寺があります。
前日、おかしなことがあったので、どうかなと思ったのですが、御神籤は大吉が出ました。
特に気になることもかかれていませんでした。
本堂です。天井にさまざまな奉納された絵があります。それぞれ画風も描かれたものも違います。
大師堂です。
こちらでも特別結縁の紐があります。お参りをします。
『行基菩薩が聖武天皇の勅願で、七難即滅、七福即生を祈念して仁井田に天の七星を象取した根本寺として、七つの福寺を建立したのが始まり。(NPO四国路おへんろ倶楽部)』
仁王門です。
お参りを終えて、昔ながらの店や民家のある通りを進んで行きます。
木陰で一休みします。
車道脇の道を折れて進んでき、神社があったので休憩させてもらいます。
飲み物がもうあまりありません。
しばらくすると見かけない漢字の看板のかかった家のかたにお接待していただきました。
喉が乾いて、キュウリと地元産の塩もいただいたのですがとても美味しかったです。ありがとうございました。
再びあるきだします。ここを通っていいのかなと思う箇所の横も通り、再び山の中の遍路道へ。
車道脇の遍路道もありますが、山道へ進みます。途中で足早に歩いていく女性のお遍路さんが車道を歩いていくのを見かけました。
山道のほうは涼しいです。トンボを見かけました。さすがはアキツの国です。
再び山道を出て遍路休憩所で休憩です。お遍路さんが休まず歩いていくのを見かけました。
遠くに猿田神社が見えます。案内によると、「この神様は、何とも不思議な神様であり、失せ物をしても社に行って、お願いすると思いもよらぬ所に、気付けてくれ、見つけさせてくれます。」と書かれています。猿田彦の命が祀られています。この日は途中でワープしたので、宿に着くとまだ3時になっていません。足湯の場所があったのでしばらく浸かります。
時間がきて、宿泊の手続きをします。その時、自分でも悪臭を放っているのがわかるくらい、自分が臭いです。暑いなか長時間歩いて、体の中にたんまり溜まっていた毒素が出てきたのか、眠れなかったため、疲労物質が濾過されないままだったのか。
部屋で荷物をおろすと、温泉に入りに行きました。
まだ明るい時間なので、日差しが湯船の中でゆらゆらとしています。
温泉から上がると、特産食材を使ったアイスがあり、二毛作アイスを選び食べました。美味しいです。他の種類も食べてみたかったです。
この日は眠れました。
お遍路 214/7/20
翌日は、青龍寺まで車で送っていただきます。
途中、昔の遍路道があった場所で使われなくなってなくなった道を教えてもらいます。
宇佐大橋のたもとで、ここから歩きますかと聞いていただいたのですが、なぜかその時はお寺まで乗せてもらいました。
でも着いてしばらく進んでから、思い直し、昨日の地点まで引き返すことにしました。
階段を降りていきます。朝日が清々しいです。
時刻は七時頃です。
途中で宇佐大橋の方向へ向かう軽トラのおじさんにお願いして再び橋の付近までのせていただきました。ありがとうございました。
再び歩き出し、橋から景色を眺めます。よい天気です。
山道にそれて、旧遍路道を進みます。
山のなかは木陰で助かります。
案内があります。
道路沿いのルートもあります。
竜の一本松跡です。「土地の人々は ー 竜の一本松は桧か杉か ー 言い続けてきました。この松は、松の木としてはとてつもない巨木で実話として中学生が両手をつないで図るとなんと六人分もあったそうです。台風でおれた枝そのものも巨木だったそうです。」
視界が開けて海が見えました。
今日は良い天気です。
到着です。階段を上っていきます。大師堂です。
お参りをします。
お参りのひとが途切れるのを待って写真を撮ります。
隣に白山神社があります。
本堂です。青龍寺は、弘法大師が長安の青龍寺で恵果和尚に真言密教の奥義を授けられ、師恩報謝のため日本に一寺建立を誓い、唐から独鈷杵を投げます。
帰国後、四国巡錫し、当地の松の枝にその独鈷杵が引っ掛かっているのを見つけ、この地に自刻の波切不動明王を安置し寺を建立したそうです。 (NPO法人四国おへんろ倶楽部の冊子を参考にしました。 お接待で無料で配布されています。)
お参りを終えて引き返します。仁王門から本堂まで170段の石段です。
朱塗りの三重塔です。
仁王門です。
納経所の近くから階段を振り返ります。朝の空気からだいぶ気温が上がってきました。
蟹ヶ池です。
「当地は「ベッコウトンボ及びその生息地」の?で昭和五十七年五月二十八日、土佐市天然記念物に指定したが、その後の生息状況では、次第に減少を続け、保護に取り組んだにもかかわらず数年後には生息が確認できなくなり、当該指定は適当ではない状況となった。
しかし、湿地が減少し、その希少性が高まりつつある状況下で、蟹ヶ池は県下でも最大級の面積を持ち、サクラダテ等、稀少価値を有する湿地植物や生息するトンボの種類も多いので、湿地そのものを指定し、保護することとした。」
穏やかな海です。龍の浜海水浴場があります。
カラスの羽が落ちています。影が濃くなってきました。
宇佐湾の方向の海です。行きとは違う道路沿いの遍路道を歩きます。右側は山です。
宇佐大橋を渡ります。海がきれいです。遊びに来ている人達が見えます。
渡り終えて、浦ノ内湾沿いに歩いていきます。地図を見て面白い地形だと思います。細長いキザキザのU字形の湾です。
歩いているうちに虫が首の付け根に飛んできて狙ったようにとまりました。びっくりして思わず首に巻いていたタオルストールを投げ捨てます。
黒い虫でした。オサムシ?この種類の虫は飛べないそうなので、違うかもしれません。
途中で預かってもらっていたリュックを取りに宿戻り、飲み物をいただきます。ありがとうございました。
筏の釣り場が浮かんでいます。休憩場所がありお昼にします。のんびりした感じです。
鳴瀧八幡宮があります。
山道を進み、岩不動へ向かいます。
途中、水門の側で休憩しました。
お遍路さん休憩所が見えてきました。歩くスピードはゆっくりです。ささやかな荷物の重さの違いが大変になります。
舗装された道から、仏坂遍路道を登って行きます。
岩不動の看板が見えました。こちらに降りていきます。
お参りをします。弘法大師が不動明王を刻んだ岩が祀られているそうです。
光明峯寺があり、集まりがあったのか話し声が聞こえていました。川沿いに坂を下って行きます。春は桜などきれいな道のようです。
橋の側に奉寄進と書かれた大きな石灯籠がありました。この場所だけ見ると、時代劇の舞台か江戸時代ぐらいにタイムスリップしたように感じました。元治2?年と刻まれているように読めます。元治1864-1865 慶応時代の前、ほぼ江戸時代の終わる頃のようです。
西日が川面にまぶしいです。
最近開発されつつある場所なのか、大型スーパーの上空を変わらずトンビが旋回しているのが切ない気分になります。
三度栗という年に三回栗がなる木がある観音寺へ行きます。五時ぐらいです。ここまで来る前に、お遍路さんかと思われた向かい側から歩いてこられた方に道を尋ねると、なんとお寺の方でした。遍路道から逸れてしまっていたようで高知自動車道の須崎道路を歩いて渡ったようです。途中で階段を降りて下の道に戻りました。
お参りをします。
この日はとても長かったようで、ここから宿までがとても長く感じました。途中、道路沿いで歩けなくなり、長々と休憩し、たどり着きました。
着いてみると、宿までの距離はあと少しの位置でした。
この日の夜も、怪しい夜で目がさえていっこうに寝付けません。宿について、部屋で涼み飲み物を飲みます。二間続きの趣のある昔ながらの日本家屋です。洗面所やトイレなどは昭和を思い出します。お風呂は部屋より新しい時代です。食事も豪華で美味しかったです。部屋には生花が活けられ生き生きと咲いています。洗濯も済ませ、すっきりして、さあ寝ようとしたらだめです。
食事をしたテレビがある部屋のふすまを隔てた隣の部屋が寝る部屋だったのですが、怖くてこわくて、とても無理で、食事をした部屋に布団を移動しなんとか寝ようとします。でも寝られず、あちこちにもののけが潜んでいるようで怖いのでテレビをつけると音楽番組でくるりを放送していました。それでも寝られずまんじりともせず布団のなかで過ごします。
昼間、首筋に止まった虫のことなどあり、相変わらずなにか変なのが憑いていたのか強力な呪詛みたいなものがかけられていたのかもしれません。
花はきれいに咲いていたし、宿とは関係ないことの影響だと思います。
お遍路 2014/7/19
朝の6:30頃です。
雪蹊寺の様子です。
翌日のこの日は第34番 種間寺に向かいます。
鎌倉時代につくられた運慶晩年の作 本尊 薬師如来像などが、宝物館に安置されているそうです。
「長浜川の切り抜き」の案内があります。
春野町一帯の平野を灌漑し、水運の便宜をはかるため新川川の開削工事がされたとあります。
通称長浜川と呼ばれているそうです。
民家脇の排水路にカニがいました。
神社があります。
川を渡ります。
途中、川の景色が浮世絵の中のようでした。
小川に沿って歩いていきます。高知の偉人が多く出現した土地なのかと思いながら、田園の道を通っていきます。
歩きやすい遍路道です。ときどき猫を見かけます。
到着です。鐘楼の側に神社があり、階段を登って行きました。春日神社がありました。
鳥居です。 第34番 種間寺にお参りに行きます。
底の抜けた柄杓が子育観音像のまわりにたくさんありました。
創建は585年ごろで聖徳太子の父 用明天皇の時代です。「大阪四天王寺建立のため百済から来日した仏師たちが、帰国の途中暴風雨に遭遇。秋山の郷で難を逃れ、薬師如来を刻み本尾山に祀り海上の安全を祈った。後に、この地を訪れた弘報大師がその薬師如来を本尊として開創。『土佐 十六カ所寺参り』より」お参りの人が増えてきました。
弘法大師が唐から持ち帰った五穀(米麦粟きび豆)の種を蒔いたのが寺号の由来だそうです。
本堂です。
大師堂です。
こちらでも特別結縁の五色の御手綱があります。
大師様の五鈷に繋がっています。
安産にもご利益のあるお寺です。
沙羅双樹があります。
底の抜けた柄杓です。安産祈願の御礼参りに奉納する習わしです。
山門です。お参りを終えて次は清瀧寺に向かいます。
近くの電柱に、トンビが飛んで来ました。
葛の花が咲いています。道路沿いに歩いていきます。
神社近くの公園の木陰で一休みしました。
川と橋が見えます。
仁淀川です。こちらの道が遍路道のように思えたので歩いていきます。
川へ出ました。せっかくなので近くまで行き引き返します。
今度は橋を渡って向こう側へ着きました。なかなかの距離があります。
途中の水路で梅花藻が咲いています。
遠くから神社があるのかと眺めていた場所は、高岡町軍人墓地でした。
夏の田園の中を通って、山の近くまで進みます。ようやく山門に到着したと思ったら、それから長い斜面が続きます。自転車てお参りをされているかたが登っていくのを見送ります。
第35番 清瀧寺へ到着です。大師堂です。
写真は写した時間で並べているのですが、作法の順序通りお参りしています。
ツアーのお遍路さんがやってきます。ガイドさんの話が流れてきて、お参りのあと、薬師如来像の塔のなかに入ってみました。真っ暗で、思った以上に長いこと歩いたように感じます。
眺めが良いです。とても喉が乾いていたので、長いこと座って飲み物を飲んでいました。
階段の見える前あたりに休憩場所があります。
本堂です。
お参りします。
御神籤も引いています。
お参りのひとが行き交います。薬師如来像の戒檀巡りは厄よけのご利益を授かるそうです。
この階段の上に清瀧寺があります。
仁王門に竜の天井画があります。
明治33年に久保南窓の描いた龍はどこから眺めても目が合うそうです。
仁王門です。
振り返ります。723年に行基菩薩が開基し、弘仁年間に弘法大師が五穀豊穣を祈願して閼伽井権現と龍王権現を勧請し四国霊場に定められた寺です。
坂の入り口あたりに石柱門があります。 大師の弟子 平城天皇の第三皇子、高岳親王の逆修塔(生前に自ら建てる墓)があるからのようです。
来た道を戻り、次の36番青龍寺へ向かいます。
一休みします。猫がいました。悟りを開いているのかもしれません。
暑い長い道路沿いの遍路道です。波介川の近くで歩きお遍路さんと出会います。更に歩き続け、段々登り道です。途中、峠を越えるなら、見晴らしのいい場所があって座る場所も作ってあり、そこから次の場所がみれると、声をかけていただきます。
峠の入り口にあずまやがありました。ようやくの日陰と休憩です。
イチゴチョココーティングされたアンパンマンの兄弟のようなキャラクターがありました。
一休みして登り始めようとしたら、雨が降り始めました。カッパを着て、登り始めると止み、脱ぐとまた降り始め、来たり脱いだりを繰り返し漸く上っていきます。
展望場所の案内がありました。時間を気にしつつせっかくなので登ります。見晴らしがいいです。
展望場所は引き返すことになるので、案内の表示があった場所にリュックを置いてきたのですが、峠を越えて降り始めると、蝮注意の看板があちこちに。
もしかして、リュックに入っていたらどうしようという妄想が浮かびます。
日陰の山道で、地面も湿っています。日が暮れていく時間です。足早に進みます。お地蔵さんがあると飴をお供えしました。
山を降り終えます。安政地震の碑がありました。しばらくして海が見えてきて、海沿いの道を歩いていきます。
宇佐大橋の向こう第36番 青龍寺があります。お参りは明日です。橋の付近でバスの時刻を確認します。宿の方に電話をいただいて、車で迎えに来てくれるとのことだったのですが、歩いていくことにしました。
宿に到着です。長かったです。部屋は、女性向きの居心地のよい部屋でした。念のため、リュックをひっくり返し、中を確認します。蛇は入ってなくて一安心しました。